ゲイは何のために生まれてきたのか──僕が選ぶ、恋人と穏やかな未来

ふと考えることがある。
「ゲイは何のために生まれてきたのだろうか」。
人は種を存続させるために生まれてきたのだとすれば、子どもを持たない僕に答えはあるのだろうか。
そんな問いが頭を離れなかった時期がある。
親族や社会から向けられる「期待」とうしろめたさ
会社では同僚が子どもの話で盛り上がる。運動会や成長の話に花が咲く中、輪に加われない自分に居場所のなさを感じた。
親戚からは「結婚はしないの?」と何度も聞かれる。悪気のない言葉だと分かっていても、矢のように突き刺さる。
そのたびに胸の奥がざわつき、どう答えればいいのか分からなくなってしまう。
面倒で疎遠にしたこともあった。けれど、心のどこかで罪悪感を抱え続けてきた。
「自分は存在していいのか」「勘繰られていないだろうか」──そんな思いにとらわれることも少なくなかった。
さらに世間で「少子化問題と同性愛者」をからめる声を聞くと、自分の存在そのものを否定されたようで傷ついた。
本当は僕ひとりの生き方が、社会全体の人口を左右するわけではないのに。
それでも心は、簡単には割り切れない。
現実逃避は弱さではなく、必要な休息だった
そんな時期、僕は現実逃避するしかなかった。話題を避け、会話から身を引き、見えない壁をつくって心を守った。
当時は「逃げている自分は弱い」と思っていた。
でも今振り返れば、それは弱さではなく、心を壊さないために必要な“休憩”だったのだと思う。
逃げてもいい。
でも、いずれは「逃げずに向き合いたい」と思えるようになる。
それが、今の僕の気持ちだ。
親との関係──言えないことを抱えながら
親との関係を思い返すと、若い頃は意見が合わず口喧嘩ばかりだった。
自分の考えをぶつけることが多かったのは、きっと親に甘えていたからだろう。
今は話しやすくなったけれど、一生カミングアウトはしないと決めている。
言わないことは不誠実ではなく、親を守るため、そして自分を守るための選択だ。
だから僕にできる親孝行は、たまに顔を見せることくらい。旅行の話やニュースの話を少しするだけでも、親は笑顔になる。
孫を見せられなくても、それで十分だと今は信じている。
人によって「言えること」と「言えないこと」が違う
友達、恋人、家族──それぞれに「言えること」と「言えないこと」がある。
誰にでも全部をさらけ出せるわけではない。
でもそれは不完全さではなく、人間関係の自然な形だと思う。
相手に合わせて言葉を選び、関係を守る。それは偽りではなく、むしろ思いやりの一つなのかもしれない。
恋人と過ごす、素の自分でいられる時間
そんな中で、恋人は特別な存在だ。
一緒に家でくつろいだり、近所に買い物に出かけたり、時には旅行に出かけたり。何気ない日常の時間が、何よりの宝物になっている。
最初はドキドキワクワクする日々だった。相手に好かれたいと背伸びすることもあった。
でも今は、飾らなくてもそばにいられる安らぎが中心になった。
それでも時々、恋人が近くに来てスキンシップをしてくれると、不意にドキッとさせられる。
安心とときめき、その両方を感じられる関係に育ってきたことが嬉しい。
未来の僕に思うこと
これまで僕は、うしろめたさや罪悪感を抱えながらも生きてきた。
でも今は、恋人と過ごす安らぎの中で、自分を少しずつ肯定できるようになってきた。
未来の僕はどうだろう。
親に全部を打ち明けることはないかもしれない。
社会から偏見の目を向けられることも、完全にはなくならないだろう。
でもそれでも、「自分の人生を自分で選んできた」と胸を張っていたい。
その未来の中で、一番の願いはとてもシンプルだ。恋人と穏やかに暮らすこと。
派手な夢や大きな成功じゃなくても、同じ家で日々を重ね、笑い合い、支え合いながら過ごせること。
「ゲイは何のために生まれてきたのか」──その問いに正解はないのかもしれない。
けれど未来の僕が、恋人と並んで穏やかに暮らしているのなら、それだけで答えに近づけているのだと思う。
おわりに
社会や親族の期待に応えられなくても、僕には僕の生き方がある。
それは誰かを愛し、愛され、安らぎを感じながら生きること。
「存在していいのか」と悩んできた僕がたどり着いた未来は、
「誰かと穏やかに暮らせること」だった。
あなたにとっての未来は?
僕は「恋人と穏やかに暮らすこと」に未来を託したいと思っている。
でも、生き方や願いのかたちは人それぞれ。
あなたにとっての「穏やかな未来」は、どんな姿だろうか。
家族と過ごす時間かもしれない。
好きなことを続ける自由な日々かもしれない。
あるいは、まだ言葉にならない小さな願いかもしれない。
ぜひ、自分自身の未来について少し考えてみてほしい。
そしてもしよければ、コメントやメッセージであなたの想いを聞かせてください。