自転車の青年 ― 未経験の彼と過ごした不思議な時間

数年前の、今頃の季節。
蒸し暑い夏の深夜、バーで飲みすぎてしまい、気がつけば午前二時を回っていた。電車はすでになく、仕方なく酔いを冷まそうと夜の街を歩いていた。
静かな通りを歩いていると、向こうから自転車に乗った若い男がやってきた。街灯に照らされた横顔は驚くほど整っていて、思わず視線を奪われた。
すれ違ったはずなのに、彼は引き返してきて僕を追い越し、公園の横に自転車を止めて中へ入っていった。
胸の奥にざわめきが走り、気づけば僕も足を運んでいた。
ベンチに並んで腰を下ろした彼は、少し視線を泳がせながらも、真剣な目で言った。
「男と…こういうの、したことないんです」
初めての告白に震える声。指先を落ち着きなくいじる仕草。
それでも、僕を選んだ理由を探るように、まっすぐな視線を向けてきた。
「本当は、女の子をいないかなと思って走ってたんです。でも…兄さんが目に入って。気になってしまって」
なぜ僕だったのか。なぜ引き返してきたのか。答えはわからない。
けれど、そのぎこちなさと初々しさに、不思議と心を揺さぶられた。
やがて互いの距離が縮まり、視線と呼吸が重なる。
人目が気になり、僕らは自然とその場を離れ、近くのホテルへ向かった。
そこで過ごした一夜は、どこか現実離れしたものだった。
彼の不器用な手つきや、触れるたびに伝わる緊張は、未経験であることを雄弁に物語っていた。
それでも、彼の真剣な眼差しと、初めてを受け入れようとする戸惑い混じりの勇気が、強く胸に残った。
――こんなこと実際にあるのか。
朝方、別れ際に彼は「自分は男性が好きなわではないと思う」と言った。
けれど、あの夜の視線や仕草は、それだけでは説明できないものを含んでいた。真相は今となってはわからない。
その後、彼に会うことはなかった。
それでも、深夜にあの道を通ると、ふと自転車に乗った彼が現れ、あのときと同じまなざしを向けてくるのではないか――そんな気持ちになる。